下風呂温泉は下北半島の右端のほうに位置している。 大間に行く途中に通るので大間に行ったことがある人は知っているかと思われる。 その日の朝にまぐろ食おう。と思ったなら。大間に行きそして帰りには下風呂温泉に浸かってから帰る。といふ。るーてぃんが出来上がっている。   距離としては三沢からだと約120キロほどだ。 だいぶ遠いかと思われるが、俺の場合ドライブが趣味と化しているのもあり全く問題にはならない。 1日150キロ程度は近くのコンビニにじゃんぷを読みに行く気軽さであったりする。   日帰りで下風呂温泉に入るとしたら、選択肢は新湯と大湯のこの2つになる。 新湯の方は浴槽が一つのみで、大湯のほうは浴槽が二つだ。 何回か俺は下風呂温泉に入っているのだが、これは初めて下風呂温泉の大湯の方に入った時のたわいもないはなしである。   俺はその日初めて大湯の方に入った。 浴槽はぬるい湯と熱い湯の2つに分けられており、俺は熱い湯の方が好きなもんだから、何も考えず熱い湯の方に一気にざぶっと入る。 熱湯である。どうやっても人間が入れる温度ではない。1人で『あっつ!』と反射的に叫び悶絶するほどだ。 それはかろうじてぼこぼこと沸騰はしていないように思われた。   もちろん地元民であろう周りの人々は、熱い湯には近寄ろうともしない。まず、これを人間が浸かれる温泉という物体としての認識では捉えていないように思われた。 浴場の床は木でできており、歩いた部分が濡れて足跡がつく。 熱い湯の周りにはつくはずであろう足跡は一つもなく、木が乾いており、床の色がその他の場所とそれを明確に分けている。   ここには存在しない別の世界のようだ。そうかこれが「いせかい」のいりぐちなのか。 このいりぐちにしばらく、5分も浸かっていれば別次元の世界に行けるというわけか。この湯の成分が人間という物体を量子まで分解し、別次元へと情報として転送した後に再構築するというわけか。しかしそれは最早自分という存在と言えるのだろうか。肉体は。精神は。自己の定義とは。いやそもそも自己を形成しているモノは量子それぞれが記録している情報だとすると、意識といふものは量子の情報の塊。その自己の情報を完全再現できたなら自分のくろーんを造ることが可能になる。いやそもそも肉体は邪魔だな。。。。。   タイマーズのテーマソングが流れていた。どうやら俺は僅かの時間とりっぷしていたらしい。熱湯の余韻に浸り悶絶しながら。   そうかこれが下風呂温泉の洗礼か。ふ。俺は舐めていた。熱い湯とはなんなのか。これに浸かり続ける事ができる人間は存在するのか。熱い湯の「い」の部分は必要なのか。とった方がいいのではないか。そんな赤子の手を捻るほど簡単な事も分からないのか。と己を叱咤しながら。ふ、と。この世の真理の一端に触れれたようなそんな僅かな高揚感がそよ風のごとく少し吹きそして消えた。   この湯はネタである。俺はそう確信してぬゆい湯に浸かるのであった。   そんな少しだけ古い良き思い出がある下風呂温泉の大湯が今年の12月1日になくなるらしい。 心配はいらずとも新しい温泉施設を建設中だ。きっと老朽化云々様々な問題があっての新設なんだろうと。 新しい温泉施設にもぜひ熱い湯を追加してほしい。そう切に願い、また来よう。少しばかりの侘しさがほんのりかもす津軽海峡と下風呂温泉郷を後にするのであった。

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