結論からだが、人はどこまでいっても一人だと言うことだ。
親、子供、嫁、家族、友達、仲間、仕事、様々な観点から多種多様に人と繋がり合って生きている訳だが、本当に分かる事は自分の事のみだ。
なぜ、そう言い切れるか。
人は自分以外の人の内を全て見る事が、感じる事ができないからだ。
親は子供の事はなんでも分かる。
本当にそうであろうか?
長くつるんでいた友達だから。あいつの事はなんでもわかる。
本当にそうであろうか?
物事や言語には二面性があると言うが、俺の考えでは、物事でも人でも言語でもあらゆるモノは多面性があると考えている。
例えば、辛い事があったとしよう。人によってはその辛い事は楽しい事だったりする。
また、嬉しい事だったりする。悲しい事だったりする。怒ったりする事だったりする。
人によって感じ方が違うと言う事は、辛いと言う言葉は何にでも置き換える事ができるのではないかと考えた。
言葉こそ多面性がよく分かるモノはない。
日本語でもそうだが、基本アルファベットの言語を勉強した事がある人なら分かると思うが、その単語1つに様々な意味がある。
だから、孤独という言葉に対して、寂しそうとか、きっと辛いんだろうなとなぜ言えるかという話だ。
逆に自由という言葉に対して、楽しそう。毎日充実しているんだろうな。となぜ言える?
自由の裏側として孤独が存在していて、孤独の表側が自由である。というこれは表裏一体で二面性というやつだ。
だが、実は多面性がある。
自由と孤独には旅という意味もあるとする。冒険という意味もあるとする。危険とか。死とか。
要するにこうだ。想像して付け足す。
これで、一つしかない言葉が、対になる二面性があり、そこから想像して多面性であると感じれる。
じゃあ人はどうだ。
あいつの事は何でも分かる。
俺からしてみればそれは、その人間を自分が分かった気になっているだけの話である。
決めつけ。断定。固定観念の始まりである。
決めつけや断定はまずそれで定義して物事を進めていくときのみでいいのではないかと思う。
要するにあらゆる決めつけや断定は誰かが物事を定義して進んでいるだけの話である。
自分で物事を定義して進んでいけば面白い。
そして多面的にその物事を定義して進んでいけばもっと面白い。
真実は無限。そこまでに至る過程も無限。という事になる。
俺は俺自身もまだまだ、自分の多面性を探求している。
いや、むしろ、この旅は終わる事がないのではないだろうか。
自分自身でもこうだ。要するに、本当に人を理解する事は不可能ということになる。
これこそ、俺が人はどこまでいっても一人だという理由だ。
沢山のモノや人に囲まれて、自分の欲しいものは何でも手に入れる事ができて、自分の好きな事がなんでもできて、何不自由なく暮らしているとしよう。
まず、この生活が自由と言えるとしたら、その人間は満たされていると思うだろうか?
さっきもいったが自由の裏には孤独が存在する。自由になればなるほど孤独になっていくという訳だ。
じゃあその人間は寂しいのか。本当のところはわからない。なぜなら自分ではない、他の人間だから。
ただ、もしそれが俺だったとしたなら物質世界のモノがいくらあろうと、そんなもんでは満たされてはいないだろうと思ってしまう。
逆から考えると、それら多くのモノが無かったら満たされないと言うことになってしまう。
また、逆から考えると、多くのモノがなくても満たす事はできるということになる。
これは一体どういう事だ。
つまり、考え方次第で自分の世界は変わると言う事だ。
そして、変える事ができるのは自分の世界のみしかない。
自分以外の他人の世界を変える事はできない。
もし、自分以外を変える事ができたとしたなら、もしくは変えたと思っているとしたら、それは自分がただそう思っているだけにすぎない。
なぜなら、他人の内を全て見る事ができないから。
もしかしたら、その人が、ただ従っているふりをしているだけかもしれない。洗脳されているふりをしているかもしれない。
自分以外は何もわからない。
ふふ。これがこの話の面白い事だが、おれは今この定義で物事を展開している。
もし、他人の世界を変える事ができたならと定義して展開することもできる。
さっきもいったが要するに決めつけは他人の定義の展開というだけだ。それに縛られることほど馬鹿げた事はない。
飲みにいかなかったら飲み友達に出会う事がない。サッカーをしにいかなければサッカー仲間に出会うこともない。パリに行かなかったらパリで出会う人とも会わない。
子供と会おうとしなければ、子供に会うこともない。
何か自分で行動をしなければ実は誰に会うこともない。
人と会って何かするのが楽しいのか?じゃあ逆に人と会わなかったら楽しくないのか?寂しくなるのか?
孤独でいる事がどうして寂しいと言えるだろうか?
俺は孤独が物凄く好きだったりする。1人でいると自分自身との対話をする事ができるからだ。
孤独=寂しいという定義は俺の世界では成り立たなくなる。
逆に孤独=楽しいと定義して展開していく。
自分との対話をしていると、多くの事に気づく。
これは、自己との対話で一つ気づいた事だが、自分を満たす事ができる答えはもうすでに自分の中に持っていると言う事だ。
親が子供にしてあげれる唯一の事はこれに気づかせてやるように行動する。事のみではないかと考えている。
人を変えてやる。子供に気づかせてやる。なんて事はさっきもいったが不可能だ。自分で気づかないと一生気づかない。
じゃあ、どうするんだ。俺はという話になる。
これは一つのアートの形だ。
アートとは自己との対話によって生じるあらゆるイメージ。自分の内。それらが外に吐き出されている状態の事を指すと俺は考えている。
人によって具現化されたアートの形は様々違う。
アートとはその人間の内そのものな訳だ。
だから、俺はあらゆるアートに関して否定はしない。
アートを否定する=その人間の内。を否定するという事になるからだ。
そして、否定すると言う事はその人間の内の剥き出しの肉をナイフでぐちゃぐちゃに刺しまくっている事に等しい。
浅いとか。意味が分からんとかどの口が言える。
否定される事がどれだけ苦痛か。
となぜ否定されると苦痛になるのかという考えに至る。
そこからまた、否定の裏を探して、そこから多面的に展開していくという事を延々と俺は繰り返している。
なぜそんな事をするのか?
答えはいつだってシンプルだったりする。
楽しいから。
他人の内側の肉を見たいから。それが俺がアートが好きな一番の理由である。
否定はしないと言う事は。肯定はするのか。肯定もしない。ただ見るだけ。ただ知りたいだけ。ただの好奇心だけだったりする。
自分の内しか知る事はできない。他人の内のほんの一部はアートで知るしかない。
幸せとは何か。
物質世界においての幸せとはただのモノの集合体にしかすぎない。物質側には幸せと言う名前がつけられているだけだったりする。
一番大事なモノは目には見えないんだよ。
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